家康が織田長益に期待した豊臣家の「制御」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第32回
■家康から期待された豊臣家の「制御」という大役
関ヶ原の戦い後、家康の信用も獲得している長益は秀頼の親族かつ重臣として、豊臣家の制御を期待される存在となります。徐々に徳川家に政治の実権が移っていく中、豊臣家と幕府の間を取り持ち、二条城会見の実現に向けて奔走しています。
その後も幕府との関係を維持するため、大野治長(おおのはるなが)たちと共に淀殿を含めた豊臣家の制御に努めます。
しかし、方広寺鐘銘(ほうこうじしょうめい)事件で豊臣家と幕府の間が不穏になってくると、身内である次男頼長が好戦派たちと共に暴走を始めます。長益や治長の穏健路線に反対する頼長たちは、無断で浪人衆を搔き集めたり、信雄を総大将に担ぎあげようと企むなど、豊臣家の制御に苦労し始めます。
大坂冬の陣ではひとまず幕府との講和に成功するものの、不満を持つ浪人衆を中心に幕府との再戦を望むようになり、豊臣家は暴走を始め、ついに制御不能に陥ります。ついに長益は「誰も自分の命令を聞かないので大坂城にいるのは無意味である」と、自ら制御を放棄し、家康の許可を得て大坂城を離れてしまいます。
豊臣家滅亡後は、子どもたちに所領を分け与えて隠居すると、政治の表舞台に立つことなく茶の湯に専念し余生を過ごしました。
■近親や身内ほど実は「制御」が難しい
長益は外交交渉を得意とし数々の成果を出しているものの、危機的状況における身内の制御は不得手だったようです。生涯で幾度も血縁によって重臣となる機会に恵まれますが、常に主たちは歴史の表舞台から去る方向に進んでしまいました。
現代でも、組織内にいる親族や身内の制御が及ばず、暴走を招いて組織を揺るがす事態に発展する例は多々あります。
もし長益がどこかのタイミングで身内の制御に成功していれば、歴史は今の形とは変わっていたかもしれません。
ちなみに、姪のお江(ごう)が徳川家光(とくがわいえみつ)を産んでいるため、徳川家とも親戚筋にあたりますが、長益は早々と隠居し、幕府に重用される事もありませんでした。
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